1964年、東京写真専門学校を卒業し、カメラマン宣言をするが、喰えず。65年、月光ギャラリーで、写真展「日本銀行」を開く。これが、意外に好評で、岩波書店の雑誌「世界」のグラビアで、学生運動のドキュメンツの仕事の依頼をうける。担当の編集者は、安江良介氏だった。氏は後に、美濃部都政を推進する知事の片腕として活躍し、晩年は、岩波の社長になった。いきなり、敏腕の編集者に出会えて、幸運だった。写真評論家の伊藤知巳氏、カメラ毎日の山岸章二氏にも、強力に後押ししてもらった。カメラマンにとって大切なのは、優れた編集者と出会うことだ、とその時痛感した。

 連鎖的に、アサヒカメラ、カメラ毎日に新人紹介され、それを見てくれた徳間書店の佐藤編集長が、新雑誌「月刊タウン」発刊のスタッフに招いてくれた。アメリカの、プレイボーイ、ニューヨーカーなどをモデルにした、日本で始めてのクラスマガジンだった。発刊が、日本の土壌には早過ぎたといわれ、1年で廃刊になった。いまのグラフィカルな月刊誌は、数年して月刊プレイボーイを皮切りに続々登場することになった。 観念的で、理屈じみた作品の多かった私に、佐藤さんは、ファッション、車、ドキュメンツ、ポートレイト、フィクション、などあらゆる仕事を任せてくれた。ここでの、嵐の様な経験が、自分のレパートリーを広げてくれたのだと、思う。

 同時に、雑誌「宣伝会議」のグラビア連載、スタートしたばかりのリクルートのほとんどの媒体をてがけた。文化人、芸能人、学者、経営者、のポートレイトが多かった。当時は、侍のような編集者が何人かいて、いい仕事をさせてくれた。両誌とも20年継続した。

 70年、邑元社という出版社をつくった友人の、元村をサポートして、ニューヨークにロバート、フランク氏を尋ね、彼の写真集を制作することの同意を得る。東由多可がオフ、ブロードウエイで、黄金バットを上演し頑張っていた。
 フランク氏との交渉の合間に、1カ月、マンハッタン、ブルックリン、シカゴなどを撮影し、帰国後、銀座ニコンサロンで、写真展「風と光りと」を開催した。以後、銀座、新宿のニコンサロンで「幻視行」「寺山修司への旅」「日銀〜沈黙と凝視」「都市の感受性」の写真展を開催する。

 各、雑誌に寄稿するかたわら、大学や専門学校、企業の、入学、入社案内を大量に制作する。企業の、ピーアール誌も沢山てがけた。神崎製紙、花王石鹸、日本アップジョンなど、10年以上にわたるものも多く、第一生命の「サクセス21」は、トップ経営者を、15年間、表紙に掲載する長い仕事だった。従って、撮影した各界の箸名人は、4000人位になるだろうか。

 それに、各雑誌で、職人や、名匠を、100人程取材した。若者達も随分撮った。就職ジャーナル、やキャリア、ガイダンスなどの媒体で、大学、高校、専門学校のキャンパスで、15年位、学生のイメージ写真を撮りまくった。他の雑誌で、ユーシーエルエーのロス校、バークレー校、ネヴァダ州立大学など、アメリカの大学も取材したが、彼我の魅力の差は、覆うべくもなかった。

 海外の撮影で、ヨーロッパの、イメージ写真もおおいが、ボーイング社の、巨大な工場のドキュメントや、北京大学の学長の撮影が印象的だった。タイのアユタヤの遺跡でモデル撮影中、コーデイネーターの判断ミスでトラブルになったが、立会の、軍の大佐を相手に誠実に交渉し彼等の信頼を得たことが、最近の嬉しい出来事だ。ジョン、ローンに似た、若い大佐は、撮影中、破格の配慮をしてくれた上、ホテルまで別れの挨拶にきてくれた。

 総括すると、私の得意分野は二つ。人物ポートレート、と、都市に関連したイメージ写真である。